Mag-log in(晴紀……どうか倒れないで) 祈るような気持ちでデスクに戻った瞬間、スマホが震えた。 《京都工房・後藤親方》の文字に、背筋がすっと冷える。『……朝倉さん、来てくれへんか。全部、沈んだ』(今……?)(秋の企画が……間に合わなくなる) 短い声に、切実さと諦めきれない焦りが滲んでいた。「……わかりました。すぐ行きます」*** 京都の工房は、異様なほど静かだった。 銅鍋の音も、乾燥機の低い唸りもない。働く音が一つもなかった。(……嫌な静けさ)「朝倉さん!!」 若手が駆け寄ってきた。顔色が悪い。「全部……ダメです……。《希望の赤》、ジャム層が沈んで……!」「……全部?」「今朝の百個、全滅です……!」 息が止まった。 さっき屋上で、まだ終わってないと自分に言い聞かせた、その直後なのに。 赤い影を抱えた琥珀糖が並ぶ作業台が、まるで失敗の証拠のように沈黙していた。(嘘……どうして今日……?) 視界の端が揺れる。胸の奥で、さっき灯った光が、音を立てて砕けた。 その時、後藤親方がゆっくりと近づいた。 沈んだ一粒をすくい上げ、光に透かす。「……今日は素材が悪うてな。無花果が少しゆるい。糖度はええけど、粘りが足りへん」(素材……それだけで、全部?) 喉が詰まった。 挑戦なんて言わなければ……と思った瞬間、胸が痛んだ。「見極めが甘かったのは、わしや」「親方のせいじゃ——」 言おうとした瞬間、声が震えた。「ええんや。挑戦受けた以上、背負うのは親方の役目や」 若手が唇を噛む。 私は涙をこらえたまま、テーブルの赤い沈殿を見つめる。(……違う。 私が無理を言わなければ——) 親方は温度計を握りしめた。「……やり直すぞ」「でも、発売まで三日しか……!」「無花果は明日の朝イチで届く。そこから一発勝負や。 今日は、わしと若い衆三人で、夜通しライン直すで」(夜通し……? 親方が……?) 胸が締め付けられる。 晴紀が銀行を回って折れかけていた姿、背中を抱いたあの感触が蘇る。(あの人の最後の賭けを、私が折るわけにはいかない) でも、足が動かなかった。 息が乱れ、胸の奥の小さな火が、いまにも消えそうだった。(……ごめん、今だけ……無理) 工房の蛍光灯が白々と光り、沈んだ紅葉だけが静かに沈んでいた。「……朝倉さん」
神園家撤退から二か月と二週間。 残り資金は十日分。 SNSでは〈清晴堂、死のカウントダウン開始〉という投稿が拡散されていた。 秋企画《希望の赤》は順調。 経営改革も痛みを伴いながら進んでいる。 ……でも現金がなければ、何も続かない。 本社の自動ドアが音もなく開くと、 そこへ雨に濡れたコートの男がゆっくり歩み入った。 清水晴紀。 一歩踏み出すたび、 濡れた靴底が床に小さく跡をつける。 ネクタイは結び目が緩み、バッグの持ち手を握る指は白く、肩はわずかに落ち込んでいた。 受付の社員が声をかけようとしてやめた。 その表情だけで、結果が分かってしまったからだ。 (……今日もダメだったんだ) 晴紀はそのまま、 息を落とすように社長室へ入った。 *** 社長室には先に悠斗がいた。 彼は資料を広げたまま兄の姿を見て、眉をひそめた。 「……三行まわったんじゃ?」 「四行だ。最後の一行は…… 神園家の支援が戻る見込みがあるならって……」 そこまで言って、晴紀の声が途切れた。 悠斗は書類を閉じ、静かに言った。 「兄さん、まず靴を脱げ。びしょびしょだ」 「……悪い」 靴を脱いだ晴紀は、デスクに両手をつき、ただ立ち尽くした。 「悠斗……どうすればいい?」 それは兄としてではなく、ひとりの迷った経営者が絞り出した問いだった。 悠斗は淡々と、しかし決して冷酷ではない声で答える。 「経営改革は進んでいる。 秋企画もSNS指標がいい。 未来はある。問題は明日と来週だ」 「分かってる……。 分かってるけど……資金が、もう……」 「まだ手はある」 「どこだ?」 晴紀は縋るような目で弟を見る。 悠斗は息を整えて、静かに言った。 「国内はもう厳しい。 でも海外を含めれば、まだ六つ動ける先がある。 とにかく——できる手は全部尽くそう、兄さん」 その言葉に、晴紀の指が少しだけ震えた。 「……十日で、間に合うか?」 「分からない。でも、探す」 短い静寂が落ちる。 その沈黙が、逆に現実の厳しさを突きつけていた。 やがて晴紀は、深く息を吐いた。 「……風、吸ってくる」 「行ってこい。兄さんは少し休まないと倒れる」 晴紀は頷き、屋上へ向かった。
エントランスの前で、晴紀がふっと立ち止まり、私を見下ろした。「……部屋まで送る」「だめ……それは困る」 きっぱり言ったつもりだったのに、声が頼りなかった。「仕事相手と二人で、部屋の前までなんて……誤解される」 言い切った瞬間、視界がわずかに揺れた。(……まずい。立ってるだけで、ふらつく) 次の瞬間、晴紀の手が私の肩に触れた。 躊躇のない、でも強すぎない支え方。「無理するな。今日は送らせてくれ」「でも……」「誤解より先に、途中で倒れられる方が困る」 その声に、言い返す力が抜けていく。 気づけば、指先まで包まれていた。「……行くぞ」 短い一言。 それだけで、私は頷いてしまった。*** エレベーターの中。 手は離れないまま、言葉もない。 ただ、呼吸の音だけが近い。(……離さないんだ) 嬉しいのに、怖い。 心臓が落ち着く暇をくれない。 扉が開き、夜の廊下が静かに広がる。 一歩進むたび、握られた手の温度が、じわじわと身体に回ってくる。(晴紀が……私の部屋まで来るの、初めてだ) 角を曲がった、その瞬間。 私は思わず足を止めた。 廊下の照明の下。 私の部屋の前に、ひとり、立っている。 紙袋を手に、壁にもたれて。 まるで――待っていたみたいに。 Dだった。 一瞬、時間が止まる。 晴紀の指が、わずかに強く絡んだ。 Dの視線が、ゆっくりこちらに向く。 驚きはない。 ただ、静かに状況を受け止めている顔。「……朱音、おかえり。昨日の打ち合わせ、具合悪そうだったから心配で」 柔らかな声。 けれど、その場を把握している冷静さがある。 私は慌てて口を開いた。「ちょっと、ふらついて……。 晴紀が、たまたま支えてくれて……送ってくれたの」 Dは小さく頷き、視線だけを晴紀へ向けた。「そうなんですね。 朱音を助けてくださって、ありがとうございます。晴紀さん」 丁寧なのに、距離を測る声。 晴紀は、微動だにせず答えた。「当然です。 ――イメージコンサルタントの、天野さんですよね。 今回の企画ではお世話になっています」 名前を確認する言い方。 線を引くみたいで、胸の奥がざわついた。 Dは、ゆっくり微笑む。「ええ、天野です。 夜分にすみません。 ……こんなところでお会いするとは」 こんなとこ
——分かっていた。 思い出してはいけない、と。 でも、身体は先に反応してしまう。 晴紀の手が、私の腰に添えられたまま離れない。 スーツ越しなのに、指の形がはっきり分かるほど、 その掌の熱が、じわりと身体の奥に滲んでくる。 支えられた腰が、 自分でも驚くほど、ふっと力を抜いてしまった。(……だめ、これ……) 胸の前には、晴紀の身体。 シャツ越しでも分かるほど、胸板が硬い。 呼吸が一度、深く上下して、 その振動が、逃げ場なく胸元に伝わってくる。 近い、と思うより先に、 彼の体温が、私の呼吸に重なった。 こんな距離で見つめられたら—— 体が、先に負ける。「……お前、寝てないだろ。限界までやりすぎだ」 声が低い。 腹の底で鳴る声で言われると、 腰を支える指の圧がさらに深くなって、 身体がつい、そっちへ寄ってしまいそうになる。「秋企画が……どうしても今日中に——」「分かってる。ずっと見てた。 だから言ってるんだよ……倒れるほどやるな、朱音」 朱音と呼ばれた瞬間、胸板の前で、呼吸だけがぶつかった。(こんな声……抗えなくなる……)「……晴紀……」 名前を呼ぶと、 彼の手が、腰からゆっくり上へ移動した。 背中のラインを確かめるように、スーツ越しに指先がそっと触れる。 その手が頬へ向かう。 触れてないのに、肌が先にざわつく。(触れられたら……もう、立てなくなる……) 指先が頬の前で止まる。 触れていないのに、そこだけ空気が張りつめた。 腰を支える掌の圧が、わずかに深くなる。 息をすれば、触れてしまいそうで、 どちらも、次の動きを選べずにいた。(キスされる……)(されたい……)(でも——今は) 目を上げると、晴紀は真っ直ぐ私を見ていた。 逃げ場を失うくらい、まっすぐで、苦しげで、どうしようもなく優しい瞳だった。 その視線を受け止めたまま、 数秒——いや、数秒以上の長さで息が止まる。(……この距離で、こんな風に見つめられたら) 胸が痛いほど高鳴って、 理性のほうが先に溶けてしまいそうだった。 限界みたいに、 静かに、ゆっくり。 晴紀が—— 先に視線をそらした。 切なそうに、苦しそうに、 自分を抑えるみたいに、ほんの一瞬だけ目を閉じて。「……くそ……」 小さく噛みしめるように
二か月が経った。 清晴堂は——かろうじて生き返りかけていた。 不採算部門は痛みを伴いながらも閉じ、工房の動線が改善され、店舗の原価率が数字で見えるようになった。伝統派の抵抗は想像以上に強かったが、それを押し切ったのは、晴紀と悠斗の執念に近い踏ん張りだった。 (よくここまで……来た) そして、秋企画《希望の赤》も、静かに、でも確実に灯を大きくしていた。 京都と東京を何十回も往復して、職人と五十以上の試作を重ねた。 琥珀糖に果実ジャムを内包し、 さらに中心で林檎の蜜煮の芯を揺らす構造など、 技術的には無理と言われて当然だった。 でも——秋の光をそのまま閉じ込めたような和菓子が、どうしても必要だった。 伝統の技で、洋菓子の果実感と透明の紅葉を三層で重ねる。 それが清晴堂の未来になると思った。だから反対されても、失敗しても、職人と一緒に前へ進んだ。 ある朝、 琥珀糖の外殻が澄み、 その内側で果実ジャムが瑞々しさを保ち、 中心の芯が揺れる―― 三層すべてが狙い通りに噛み合った、その瞬間—— 工房が、静かに沸いた。 その無謀な挑戦の物語ごと、《希望の赤》はSNSで火がつき、マーケティングの核になった。 (これは、いける……はず) でも寝てない。 目の奥が痛い。 二日前なんて、職人に無理やり帰されるまで工房にいた。 ——そして、その朝。 駅の大型ビジョンいっぱいに《希望の赤》が映った瞬間、立ち止まった。 透き通る薄紅の琥珀糖がパリンと割れ、 無花果のジャムと林檎の蜜煮が、光を受けて滲む。 ——ほんの一瞬で、紅葉が散ったみたいだった。 「なにこれ……」 「和菓子でここまでやる?」 「この動画、バズるでしょ」 通勤客が次々スマホを向け、Xではもうタグが立ち上がっていた。 #希望の赤を割ってみた #紅葉を閉じ込めた琥珀糖 ジャムの艶、薄膜の透明感、包丁のパリン。 映像映えが完璧すぎて、火がつく予感がした。 でも、それだけじゃない。 (Dが動いてくれた……) 影でDがインフルエンサー群に種をまき、「清晴堂・老舗の最後の挑戦」という物語ごと拡散させていた。 和菓子の美、職人の執念、老舗の瀬戸際というストーリー—— その全部が重なって、
「……朱音。こんな時間に?」 「気になって。……様子を、見にきたの」 夜の社長室は、必要最低限の照明だけが落とされていた。 ブラインド越しに滲む街の灯りが、机の上の書類の角を鈍く光らせている。 未整理の資料、冷めきったコーヒー、外されたネクタイ。 ここ数日の張り詰めた時間が、そのまま置き去りにされたみたいだった。 彼は苦笑したように視線を下げた。 「大丈夫だよ。……いや、大丈夫にする」 その言い方が、逆に危うかった。 強がっている。 立とうとしている。 折れかけている——でも折れていない。 無理に背筋を伸ばした人間特有の、不自然な静けさ。 それが、胸の奥にじわりと沁みてきた。 「今日……全社がざわついているわ」 「だろうな。……当然だ」 晴紀は深く息を吐いた。 「神園家の支援は止まる。三か月後、現金が尽きる。 秋企画が外れたら……本当に終わる」 言葉にしない恐怖が、声の端で震えていた。 (……こんな顔、見たことない) 七年前、何度も衝突して、言い合って、それでも前に出ていた頃。 あのときの晴紀は、もっと強気で、もっと傲慢で、 失うことを恐れていなかった。 でも今、目の前にいるのは—— 失うものの重さを知って、それでも立っている人だった。 「ごめん……私が、たきつけたから」 「違う」 即答だった。 迷いもなく、目をそらさず。 「君が悪いんじゃない。俺が選んだんだ。 支援に寄りかかった老舗を続けるか、 自分の足で立つ会社に変えるか」 言葉のひとつひとつが、決断の重みを帯びて落ちる。 そして、かすかな声で続けた。 「……もう、これ以上は逃げたくない」 胸が熱くなった。 弱いのに強くて、 揺れてるのに、決意だけは揺らさない。 (……やっぱり、引き寄せられる) それは恋とか、情とか、 そんな単純な言葉では片づかない感覚だった。 「私も逃げない」 そっと言葉がこぼれた。 「秋企画、必ず成功させる。 あなたの未来を、私が形にする」 晴紀は、息を呑んだようだった。 ほんの一瞬、目の奥の揺れが吸い込まれて、 それから静かに、落ち着いた光に変わる。 「……ありがとう。朱音」 その声は、弱さと強さが混ざっていた。







